2021-03-13 新潟県に残されている猫の妖怪・猫又の逸話 猫又(猫股)とは、しっぽが二つある猫の妖怪である。しっぽが二又(股)に分かれるため、猫「又」(「股」)という名がついた(諸説あり)。飼い猫が長い年月を経ると、猫又になる と言われている。飼い猫が10年あるいは15年生きると人 の言葉を話すようになり、30年生きると猫又になるという。そのため、ペットが大事にされている現代では考えられないが、昔は「猫を長い間飼ってはいけない」と日本各地で言い伝えられた。 猫は人が飼う動物の中では、一番妖怪になりやすいといわれ、猫又の他にも「化け猫」や「火車」といった猫の妖怪が存在する。また、古くは鎌倉時代の書物『徒然草』にも猫又の話が記され、猫又が人を襲って喰ったとされている。猫の妖怪の逸話は、日本全国の各地に古くから伝えられている。福島県には、猫又由来の「猫魔ヶ岳(ねこまがたけ)」、富山県には、源頼朝の巻き狩りで追われた猫又が住み着いたという山の「猫又山(ねこまたやま)」がある。福島・富山の隣県である新潟県においても、猫又に関する逸話が多く残っている。 ※巻き狩り=狩場を大人数で四方に取り囲み、囲みを縮めて獣を狩る大規模な狩猟。幕府の権威を見せつけるデモンストレーションや軍事演習などを目的として行われたとされる。 新潟県長岡市の南部神社には、「猫又権現(ねこまたごんげん)」として猫が祀られていて、境内には神社にあるのは珍しい猫の石像がある。猫又ではなく、猫が祀られているのだが、猫又という名を冠している。栃尾の地は山間で、古くから養蚕が盛んだったが、蚕をかじるネズミに人々は困っていた。そんなネズミを駆除してくれる猫が栃尾の人々にありがたられ、感謝のしるしとして南部神社に祀られるようになった。 守門(すもん)村、現在の魚沼(うおぬま)市に猫又に関する話が2種類残されている。1つめは、「踊りにきた猫又」という逸話である。守門村の鎮守のお祭りは近くの村の若者が集まり、飲んで踊って夜通しで大騒ぎをするのが通例だった。ある年のお祭りの夜に、見慣れない若い男が3人やってきた。3人とも美男子で、歌も踊りも上手く、村の娘たちはくぎづけとなった。若者たちが3人に、酒を勧めても一切酒を呑まず、どこから来たかと尋ねても一切答えなかった。若者たちは不思議に思ったが、特に咎めることもなく祭りが終わったら解散をした。その翌年の祭りにも、その3人がやってきて踊り、相変わらず酒を勧められても一切呑まなかった。さすがに疑問に終わった若者が、祭りの後にその3人の後をつけた。若者が暗い山道を歩いていると、いつの間にか3人を見失った。辺りを見回して3人を探していると、若者の前に3匹の猫又が牙を向いて現れて、若者は一目散に逃げたという。これが「猫又が踊りにきた」という逸話である。 もう1つは、「猫岩」の逸話である。昔、守門村に子供のいない夫婦が住んで、全身真っ黒な猫を可愛がっていた。お爺さんが山仕事で権現堂山に行く際に、いつも黒猫を連れて行った。ある日、お爺さんが山仕事を終えると、いつの間にか黒猫がいなくなっていた。お爺さんが山中を探し回ったが、黒猫を見つけることができなかった。それから数十年経ち、権現堂山に大きな黒い猫又が現れるようになり、人の死体をさらう悪事を働いた。その悪事に怒った権現堂山の神様の九頭竜権現(くずりゅうごんげん)によって猫又は懲らしめられた。そして、猫又は石に変えられ、その石は「猫石」と呼ばれるようになった。権現堂山には、この他にも猟師を次々と襲う猫又の話が残されている。 新潟県上越市では、猫又が埋葬された土橋稲荷神社が存在する。埋葬された猫又は、江戸時代に退治された猫又である。その詳細は以下のとおりである。 江戸時代の天和年間(1681~84年)に、重倉山に猫又が住み着き、山に降りては家畜や人を襲った。人々が代官に掛け合って、猫又の討伐隊が結成されるも、猫又の討伐は失敗。そして、武勇で知られる吉十郎という人物が猫又を討伐することになった。猫又との壮絶な戦いの末、吉十郎は猫又を仕留めることができた。しかし、猫又との戦いで深手を負った吉十郎は、やがて息を絶えた。そして、猫又の死体が埋葬された場所に土橋稲荷神社が建てられた。この猫又の逸話から、土橋稲荷神社は猫又稲荷とも呼ばれる。 上越市では、この猫又の逸話を基にした「猫又退治」の劇がお祭りで披露された。「上越タウンジャーナル 330年前に出没の怪獣伝説「猫又退治」を再現」https://www.joetsutj.com/articles/51903503 新潟県に残されている話ではないが、新潟県を舞台にした猫又の話には「猫人をなやます事」という逸話も存在する。越後(新潟県の旧国名)のある武士の家に、毎晩のように火の玉が出るようになった。家の中を飛び回り、武士の寝室に入り込んだり、人を驚かせたりと、いたずらを繰り返した。困り果てた武士は火の玉を倒すことを決意した。ある晩、武士が庭に出てみると、庭の木の上に布をかぶり、尾と足で立っている猫がいた。これを怪しんだ武士は弓を持ってきて、その猫を射た。矢で撃たれた猫は木から落ちて息絶えた。武士が猫の死体を確認したところ、人間の大人ほどの体長があり、尾は二つに分かれた猫又であった。この逸話は、江戸時代の宝永年間(1704-1711年)に作られた『大和怪異記』に「猫人をなやます事」という名で記されていて、漫画家・水木しげる氏はこの話を「猫又(股)の火」と名付けた。 以上のように新潟県には猫又の逸話が多く残されており、他の県においても猫又の逸話が多くある。猫は古来より食糧をかじるネズミを駆除してくれる益獣として人々に愛玩されてきたが、猫が死体に近づく習性があったとされ、そのことなどから人々に恐れられた。このような猫の持つ二面性が、多くの猫の妖怪や猫又の逸話が日本全国で誕生させたのかもしれない。