新潟県の魅力を発信します!

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姉妹サイトの「新潟県の美味しい食べ物・名産物産wiki」を立ち上げました!

niigatameisan.memo.wiki

 

新潟県の名物や名産品などをWiki形式でまとめたサイトを作りました!

新潟県の美味しい食べ物や名物を紹介しているサイトになっています。

 

まだまだ記事は少ないですが、随時記事を増やしてきます。

また、一度作った記事も随時追記や修正をしていきます。

 

新潟県外の人には、「新潟県にはこんなに魅力的な物があったのか」と感じてもらい、

新潟県内の人には、「新潟県民だけど知らない魅力的な物がたくさんある」と感じてもらえるようにしていきたいです。

 

ぜひ、姉妹サイトもよろしくお願いします。

新潟市江南区の怪異譚・蝸牛様

蝸牛(かぎゅう)様は、江戸時代の沢海(そうみ)藩のお家騒動が基になったカタツムリの怪異譚である。
蝸牛様は、人々の信仰対象であり、特定のカタツムリの妖怪を指すものではない。

江戸時代、現在の新潟市江南区沢海に沢海藩という藩が存在した。
三代目の藩主が亡くなったが、その子供が早世をしていたため、四代藩主として養子を迎えることになった。
その際に共に家中に入った佐川佐内という人物が家老になった
佐川は四代藩主から忠臣を遠ざけて、酒や遊びに溺れさせた。
そして、庶民には重税を課して悪政が行われた。

この状況に危機感を覚えた沢海藩士たちは、悪政の主犯である佐川を打つことを決意した。
ある夜、藩士たちは佐川の寝込みを襲って、佐川に対して処刑を行った。
処刑される寸前に「我が魂は幾千万の蝸牛(カタツムリ)となって、畑を食い荒らす」と佐川は言い残した。

処刑の後の翌年に佐川の予言の通り、無数のカタツムリが現れて、村々の田畑を荒らすようになった。
人々はこれを佐川の祟りと思って恐れた。
そこで人々は佐川の怨霊を鎮めるために、沢海にある焼山に小さな石の祠を建て祀った。
それから幾千万のカタツムリは現れることがなく、村々に平和が訪れた。

この石の祠は現在も新潟市江南区に存在して、地元の人に蝸牛様として親しまれている。
4月の下旬には、蝸牛様のまつりが地元で開かれている。

以上が蝸牛様の逸話である。
ただし、歴史史料上では佐川佐内という人物は確認されていない。
逸話がまとめられた物語集の史料上には、佐川が確認はされているものの、藩の史料などからは佐川という人物は確認されていない。
つまり、佐川は架空の人物である可能性がある。
もちろん、今後研究が進んだり新たな史料が発見されたりすることによって、佐川の存在が確認される可能性もある。

佐川佐内が実在していたかどうかはともかくとして、怪異譚に登場する物が現在においても実地に実在しているのは、とても珍しいことである。
たいていの怪異譚や妖怪話に登場する物は、実際に現代においても残されていない或いはないことが多い。
それを考えると、怪異譚に登場する物が現代においても残されているのは極めて稀と言わざるを得ない。
実際に現地で祠を見て、蝸牛様の怪異譚に想いをはせてみるのも良いかもしれない。

 

 

江戸時代の越後国で小藩や天領が分立した理由(私見・考察)

戦国時代の越後国新潟県)では、上杉謙信という誰もが知る強力な戦国大名が存在しました。

しかし、謙信公を輩出した上杉家は越後から他国へと移されました。

江戸時代には、数万から10万台の石高の藩或いは天領江戸幕府の直轄地)が越後国に多く分立しました。

石高の大きい大藩は、松平忠輝高田藩が一時的にあったくらいです。

 

小藩や天領が分立した影響は、現代にも多少影響しています。

例えば、長岡藩領や天領だった新潟市は港町、長岡市新発田市は城下町としての性格や文化を持っています。

銘菓として名高い長岡の「越乃雪」も長岡藩がきっかけで誕生をしています。

同じ県内でも性格や文化が異なる要因の1つともなった江戸時代の小藩や天領の分立を考察してみます。

ただし、私は歴史学者ではありませんので、学術的に考察したものではありませんので、あくまで私見としてご覧ください。

また、必ずしも正しいというわけではありませんので、それを踏まえて当記事をお読みください。

 

なぜ江戸時代の越後は小藩が分立する状態になったのでしょうか?

それは江戸幕府地政学的な戦略が影響しているのではないかと思います。

江戸時代より前の戦国時代の越後国には、大名の上杉謙信が存在し、謙信公は度々関東に出兵していました。

 

謙信公の度々の関東出兵を可能にしたのが、越後の豊かな経済です。

当時の越後は日本海交易で柏崎と直江津が栄え、佐渡の金銀山から採れる金銀が豊富でした。

謙信公の幾度の関東出兵により関東を本拠とする北条家は、悩まされていました。

北条家から関東の支配を継いだ徳川家、江戸幕府は越後からの脅威を認識していたはずです。

 

そして、「江戸の幕府が脅かされないように、越後に大藩を置くのはやめよう」と幕閣は考えたのでしょう。

江戸時代初期には、徳川一門の松平忠輝高田藩が大半として越後国に置かれましたが、やがて改易されました。

忠輝の改易もあり、徳川の親族とはいえ、越後国に大藩を置くのは危険と幕閣に判断されたのかもしれません。

やがて越後国には、大藩が置かれなくなり、小藩と天領が分立して配置されました。

 

江戸の周囲に大藩を置きたくないというのは、常陸国(茨城県)の大大名・佐竹家が秋田に移されたことにも表れています。

(表向きは、関ヶ原の戦いにおける佐竹家の態度不明瞭が原因ですが)

 

話をまとめると、以下の理由で脅威と感じた江戸幕府が、越後を小藩分立の状態にしたのでしょう。

日本海交易や佐渡の金銀山の豊かな経済

②江戸に近く、上杉謙信の関東出兵の前例がある

越後は経済軍事共に江戸を脅かせるほどの強い力を持つ国だったのです。

 

 

 

 

 

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