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笹団子のルーツは、諸説あるため、明らかとなっていません。
庶民が郷土料理として作った説。
戦国時代に合戦用の携帯保存食として作られた説。
笹団子の起源説は、この2つに大きく分けられています。
しかし、どちらの説も有力である決め手がないため、笹団子がなぜ作られたかの理由は、はっきりと分かっていません。
農民が笹団子を郷土料理として作った説は、2つに分けられます。
1つは、貧しい農民が、わずかな食材を使って作ったという説。
もう1つは、農作業の時期に農民が保存食として作った説。
どちらも文献が残ってないため、はっきりとしたことは分かっていません。
伝承や口承として残っているのみです。
いつの時代から作られたかもはっきりと分かっていません。
しかし、以下の2つから、笹団子が庶民の生活と深く結びついていたと言えます。
・新潟では端午の節句に笹団子を食べる風習がある
・材料を当時の農民が手に入れやすかった
伝承などでは、農作業の合間に農民たちが笹団子を食べていたと言われています。
新潟では、現在も端午の節句に笹団子が食べられています。
端午の節句は5月5日。
旧暦では現在の6月初旬にあたります。
この時期はちょうど昔の田植えの時期です。
農作業の時期に作って食べていた風習が、現在にも残ったというのは想像に難くありません。
そして、笹団子は当時の農民にとっても手に入りやすい材料で作られています。
笹団子の材料は、笹・イグサ(笹を縛るヒモの原料)・ヨモギ・くず米・アズキです。
地域によっては、ゴボウの葉を生地に使っていました。
これらの材料は山で採れるため、農民でも簡単に手に入る物でした。
高価な材料を使わないため、当時の貧窮農民でも笹団子を作ることができました。
なお、庶民が砂糖を手に入れられるようになったのは明治時代からです。
そのため、明治以前は砂糖が入っていない笹団子が庶民の間で食されていました。
味噌、焼き魚、ゴマ、海藻など地域によって様々な具材が詰められていました。
貧しい農民でも作れたこと、端午の節句に食べる風習があることから、昭和時代までは、新潟の多くの家庭で作られていました。
このように笹団子は、庶民と深く結びついたお菓子なのです。
よって、文献は残されていませんが、農民が笹団子を作っていた説には説得力が十分あります。
次は戦国時代に笹団子が作られたという説を詳しく見ていきます。
新潟の歴史を記した江戸時代中期頃の書物『北越風土記(ほくえつふどき)』によると、合戦用の携帯保存食として笹団子が生まれたと言われています。
今から450年前の戦国時代、大名の上杉謙信が越後(新潟県の旧国名)を支配していました。
上杉軍が合戦に赴く際に、兵士が笹団子を携行したとされています。
笹には防腐効果があり日持ちするため、衛生環境が劣悪な戦場で重宝されていました。
また、形が小さく、笹で包めるため、持ち運びにも便利でした。
戦国時代に作られた説が正しければ、笹団子は現在のレーション(戦場などで食べられる携帯保存食。多くの軍隊で利用されている)のはしりだったと言えます。
誰が笹団子を発明したのかは、諸説あるため、定かではありません。
説は主に3つあります。
①上杉謙信が考案して作らせた説
②上杉家の家臣が考案して作った説
③上杉家家臣に仕えた菓子職人が考案して作った説
①の説は、伝説の域を出ない説です。
上杉謙信が笹団子を考案したことを裏付ける資料がないからです。
この説が生まれた時期や理由はあきらかとなっていません。
上杉謙信は兵糧丸(ひょうろうがん)という携帯保存食の研究に熱心だったと言われています。
そのことから笹団子が関連付けられて生まれた説なのかもしれません。
②の説は、資料による裏付けがありますが、信憑性は低いです。
上杉謙信に仕えた宇佐美定満(うさみ さだみつ)が笹団子を考案して、上杉軍の兵糧に採用された。
と江戸時代中期の書物『北越軍記(軍談)(ほくえつぐんき)』に記されています。
『北越軍記』の著者は、定満の子孫を自称する軍学者の宇佐美定祐(うさみ さだすけ)とされています。
「宇佐美定満が伊賀(現・三重県)の忍者を支配下に置いた」など史実と異なる記述が、『北越軍記』には多く見られます。
そのため、『北越軍記』は信憑性に乏しい資料とされています。
また、執筆された当時は、上杉家のライバルである武田家を題材にした書物『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』がブームでした。
それに対抗するために、定満や上杉家を称賛する書物を定祐が書いたのではないかと言われています。
笹団子に関しての記述も先祖の定満を持ち上げるために記したのではないかと推測できます。
よって、宇佐美定満が笹団子を作った説の信憑性は乏しいです。
③の説は、資料による裏付けがありますが、説を決定づけるほどの信憑性がありません。
前述の『北越風土記』によると、柿崎(現・新潟県上越市)城主に仕えた菓子職人が笹団子を考案して、上杉謙信に献上。
戦における携帯保存食として用いられたと記されています。
しかし、この記述には問題があります。
それは、上越地域に笹団子を作る風習がないことです。
上越以外の新潟の地域では、家庭で笹団子を作る風習がありました。
しかし、上越地域では家庭で笹団子を作る風習が全くありませんでした。
また、『北越風土記』以外に、上越地域で笹団子が作られていた風習が記されている資料が存在しません。
上杉家の主力兵士は農民です。
戦場で笹団子を食して、味を気に入った農民が、自分の家でも笹団子を作るようになったと推測することはできます。
しかし、上杉家の本拠地である上越地域で、何故農民が笹団子を作らなかったのかが疑問です。
上杉家お膝下の上越地域で笹団子を作る風習がなかったため、上杉家に仕えた菓子職人が笹団子を作ったという説も信憑性に欠けます。
以上、2つの大きな説を見てきました。
いったい誰が作ったのか。
なぜ作られたのか。
笹団子は謎の多いお菓子です。
ただ、江戸時代には、すでに笹団子が作られていたということだけが資料を通して分かります。
歴史が古くて謎の多いお菓子、笹団子が何故新潟県民以外にも知られるようになったか。
次の章では、そのきっかけを紹介していきます。
続きは幣著『笹団子ものしり事典』で読めます。