戦国時代の越後国(新潟県)では、上杉謙信という誰もが知る強力な戦国大名が存在しました。
しかし、謙信公を輩出した上杉家は越後から他国へと移されました。
江戸時代には、数万から10万台の石高の藩或いは天領(江戸幕府の直轄地)が越後国に多く分立しました。
石高の大きい大藩は、松平忠輝の高田藩が一時的にあったくらいです。
小藩や天領が分立した影響は、現代にも多少影響しています。
例えば、長岡藩領や天領だった新潟市は港町、長岡市や新発田市は城下町としての性格や文化を持っています。
銘菓として名高い長岡の「越乃雪」も長岡藩がきっかけで誕生をしています。
同じ県内でも性格や文化が異なる要因の1つともなった江戸時代の小藩や天領の分立を考察してみます。
ただし、私は歴史学者ではありませんので、学術的に考察したものではありませんので、あくまで私見としてご覧ください。
また、必ずしも正しいというわけではありませんので、それを踏まえて当記事をお読みください。
なぜ江戸時代の越後は小藩が分立する状態になったのでしょうか?
それは江戸幕府の地政学的な戦略が影響しているのではないかと思います。
江戸時代より前の戦国時代の越後国には、大名の上杉謙信が存在し、謙信公は度々関東に出兵していました。
謙信公の度々の関東出兵を可能にしたのが、越後の豊かな経済です。
当時の越後は日本海交易で柏崎と直江津が栄え、佐渡の金銀山から採れる金銀が豊富でした。
謙信公の幾度の関東出兵により関東を本拠とする北条家は、悩まされていました。
北条家から関東の支配を継いだ徳川家、江戸幕府は越後からの脅威を認識していたはずです。
そして、「江戸の幕府が脅かされないように、越後に大藩を置くのはやめよう」と幕閣は考えたのでしょう。
江戸時代初期には、徳川一門の松平忠輝の高田藩が大半として越後国に置かれましたが、やがて改易されました。
忠輝の改易もあり、徳川の親族とはいえ、越後国に大藩を置くのは危険と幕閣に判断されたのかもしれません。
やがて越後国には、大藩が置かれなくなり、小藩と天領が分立して配置されました。
江戸の周囲に大藩を置きたくないというのは、常陸国(茨城県)の大大名・佐竹家が秋田に移されたことにも表れています。
(表向きは、関ヶ原の戦いにおける佐竹家の態度不明瞭が原因ですが)
話をまとめると、以下の理由で脅威と感じた江戸幕府が、越後を小藩分立の状態にしたのでしょう。
①日本海交易や佐渡の金銀山の豊かな経済
②江戸に近く、上杉謙信の関東出兵の前例がある
越後は経済軍事共に江戸を脅かせるほどの強い力を持つ国だったのです。